「心身一如 物我不ニ」

そのものに成り切って無駄のない手順を工夫することだ。

料理の修業で大事なことは、料理を始める前に心を落ち着けて、無駄のないよう用意と手順とを計っておくことである。出来上がりの結果だけに囚われて、ただイライラとして切ったり、煮たり、焼いたり、蒸したりするだけでは、よい料理はうまれない。人の気持ちは、刃物や鍋にも、また味覚にも影響を及ぼすからだ。

料亭では、煮方、焼き方、洗い方など上下階級があるが、これも無駄のない手順を覚えるための1つの修行であろうと思われる。それを覚えることにより、店の板前となって今までの修行が身に染み本当の無駄のない動きとなるのであろう。それはどの職業でも同じ事が言えよう。

 

 

「心身一如 物我不ニ」

そのものに成り切って無駄のない手順を工夫することだ。

料理の修業で大事なことは、料理を始める前に心を落ち着けて、無駄のないよう用意と手順とを計っておくことである。出来上がりの結果だけに囚われて、ただイライラとして切ったり、煮たり、焼いたり、蒸したりするだけでは、よい料理はうまれない。人の気持ちは、刃物や鍋にも、また味覚にも影響を及ぼすからだ。

料亭では、煮方、焼き方、洗い方など上下階級があるが、これも無駄のない手順を覚えるための1つの修行であろうと思われる。それを覚えることにより、店の板前となって今までの修行が身に染み本当の無駄のない動きとなるのであろう。それはどの職業でも同じ事が言えよう。

 

 

「心身一如 物我不ニ」

そのものに成り切って無駄のない手順を工夫することだ。

料理の修業で大事なことは、料理を始める前に心を落ち着けて、無駄のないよう用意と手順とを計っておくことである。出来上がりの結果だけに囚われて、ただイライラとして切ったり、煮たり、焼いたり、蒸したりするだけでは、よい料理はうまれない。人の気持ちは、刃物や鍋にも、また味覚にも影響を及ぼすからだ。

料亭では、煮方、焼き方、洗い方など上下階級があるが、これも無駄のない手順を覚えるための1つの修行であろうと思われる。それを覚えることにより、店の板前となって今までの修行が身に染み本当の無駄のない動きとなるのであろう。それはどの職業でも同じ事が言えよう。

 

 

真心でつくり、真心で頂く

どのような料理をいただく時でも食事は他の命を食べている。

どのような料理をいただく時でもそうだが、食事は他の命を食べている。その為食事を残すことは無礼であるし、また感謝の意から外れている。よく外食でいろんな食を注文したのはいいけれども、食べられなくて残す方がおられますが、自分の食べられる量は分かっているにも関わらず、注文するのは“欲”である。また残された食は、料理人に対しても失礼である。

満腹で食べられないなら手を加えずそのままにしておくことが礼儀である。インドのお坊さんは食事の托鉢をするが、今日生きていく上で最低限の食事さえ頂いたら、後は頂かない。それは前に述べたように、必要以上の食事を摂らないことによる。

真心でつくり、真心で頂く

どのような料理をいただく時でも食事は他の命を食べている。

どのような料理をいただく時でもそうだが、食事は他の命を食べている。その為食事を残すことは無礼であるし、また感謝の意から外れている。よく外食でいろんな食を注文したのはいいけれども、食べられなくて残す方がおられますが、自分の食べられる量は分かっているにも関わらず、注文するのは“欲”である。また残された食は、料理人に対しても失礼である。

満腹で食べられないなら手を加えずそのままにしておくことが礼儀である。インドのお坊さんは食事の托鉢をするが、今日生きていく上で最低限の食事さえ頂いたら、後は頂かない。それは前に述べたように、必要以上の食事を摂らないことによる。

真心でつくり、真心で頂く

どのような料理をいただく時でも食事は他の命を食べている。

どのような料理をいただく時でもそうだが、食事は他の命を食べている。その為食事を残すことは無礼であるし、また感謝の意から外れている。よく外食でいろんな食を注文したのはいいけれども、食べられなくて残す方がおられますが、自分の食べられる量は分かっているにも関わらず、注文するのは“欲”である。また残された食は、料理人に対しても失礼である。

満腹で食べられないなら手を加えずそのままにしておくことが礼儀である。インドのお坊さんは食事の托鉢をするが、今日生きていく上で最低限の食事さえ頂いたら、後は頂かない。それは前に述べたように、必要以上の食事を摂らないことによる。

「知恩報恩」

織らずして着、耕さずして食するものは、せめてそれ等を造ってくれた人々に対して感謝することだけでも忘れないようにしなくてはならぬ。特に仏は、知恩報恩之れ聖道と説かれて居るのであるから、仏教徒としては恩を知り恩に報ぜなくてはならぬ

衣に対しても、住に対しても必要であるが、食に対しては特にその心持を表す方法を忘れないようにしなくてはならぬ。一切衆生は食に依って住すると仏は説いて居て食は1日もなくてはならぬものの1つである。それであるからして、仏寺として必ずなくてはならぬ。7つの御堂の1つに食堂(ジキドウ)を入れて居る。

又食料に対しても便所に落ちていた1粒の米でも、必ず拾って7度洗って食せよと誡めて居られる。さりとて多食過食を誡めて、仏弟子は日中1食を本義とし、子供と老人にのみ朝の粥を許されて居ることも記憶しておくべきであろう。

「知恩報恩」

織らずして着、耕さずして食するものは、せめてそれ等を造ってくれた人々に対して感謝することだけでも忘れないようにしなくてはならぬ。特に仏は、知恩報恩之れ聖道と説かれて居るのであるから、仏教徒としては恩を知り恩に報ぜなくてはならぬ

衣に対しても、住に対しても必要であるが、食に対しては特にその心持を表す方法を忘れないようにしなくてはならぬ。一切衆生は食に依って住すると仏は説いて居て食は1日もなくてはならぬものの1つである。それであるからして、仏寺として必ずなくてはならぬ。7つの御堂の1つに食堂(ジキドウ)を入れて居る。

又食料に対しても便所に落ちていた1粒の米でも、必ず拾って7度洗って食せよと誡めて居られる。さりとて多食過食を誡めて、仏弟子は日中1食を本義とし、子供と老人にのみ朝の粥を許されて居ることも記憶しておくべきであろう。

「知恩報恩」

織らずして着、耕さずして食するものは、せめてそれ等を造ってくれた人々に対して感謝することだけでも忘れないようにしなくてはならぬ。特に仏は、知恩報恩之れ聖道と説かれて居るのであるから、仏教徒としては恩を知り恩に報ぜなくてはならぬ

衣に対しても、住に対しても必要であるが、食に対しては特にその心持を表す方法を忘れないようにしなくてはならぬ。一切衆生は食に依って住すると仏は説いて居て食は1日もなくてはならぬものの1つである。それであるからして、仏寺として必ずなくてはならぬ。7つの御堂の1つに食堂(ジキドウ)を入れて居る。

又食料に対しても便所に落ちていた1粒の米でも、必ず拾って7度洗って食せよと誡めて居られる。さりとて多食過食を誡めて、仏弟子は日中1食を本義とし、子供と老人にのみ朝の粥を許されて居ることも記憶しておくべきであろう。

「食事作法」

自然が与えてくれる恩恵に対する謝意を示す。

1粒ノ米ニモ萬人ノ労苦ヲ思イ 1滴ノ水ニモ天地ノ恵ミヲ感謝シ奉ル 
箸ヲ執ル度ニ思エヨ 御仏ノ大恵ト涙シ流ル 頂キマス

-食後-

我レ今既ニ此ノ麗シキ食ヲ終ル 願クハ身ヲ養イ心ヲ修メテ報恩ノ道ニイソシマン 箸ヲ置ク度ニ思エヨ報恩ノ道ニ怠リ有リヤ無キヤオ 御馳走サマ

ある素材を目的のためにその一部分だけを使うのではなく無駄にしない、その素材のもつ生命を最大限有効に生かし切る、またそれを残さず食する。無駄にしないということは、いうまでもなく自然が与えてくれる恩恵に対する謝意を示す。その為、僧侶は食べる前に“食事作法”があり、経や真言などを唱えてから食す。

                                「四威儀の心得」

「食事作法」

自然が与えてくれる恩恵に対する謝意を示す。

1粒ノ米ニモ萬人ノ労苦ヲ思イ 1滴ノ水ニモ天地ノ恵ミヲ感謝シ奉ル 
箸ヲ執ル度ニ思エヨ 御仏ノ大恵ト涙シ流ル 頂キマス

-食後-

我レ今既ニ此ノ麗シキ食ヲ終ル 願クハ身ヲ養イ心ヲ修メテ報恩ノ道ニイソシマン 箸ヲ置ク度ニ思エヨ報恩ノ道ニ怠リ有リヤ無キヤオ 御馳走サマ

ある素材を目的のためにその一部分だけを使うのではなく無駄にしない、その素材のもつ生命を最大限有効に生かし切る、またそれを残さず食する。無駄にしないということは、いうまでもなく自然が与えてくれる恩恵に対する謝意を示す。その為、僧侶は食べる前に“食事作法”があり、経や真言などを唱えてから食す。

                                「四威儀の心得」

「食事作法」

自然が与えてくれる恩恵に対する謝意を示す。

1粒ノ米ニモ萬人ノ労苦ヲ思イ 1滴ノ水ニモ天地ノ恵ミヲ感謝シ奉ル 
箸ヲ執ル度ニ思エヨ 御仏ノ大恵ト涙シ流ル 頂キマス

-食後-

我レ今既ニ此ノ麗シキ食ヲ終ル 願クハ身ヲ養イ心ヲ修メテ報恩ノ道ニイソシマン 箸ヲ置ク度ニ思エヨ報恩ノ道ニ怠リ有リヤ無キヤオ 御馳走サマ

ある素材を目的のためにその一部分だけを使うのではなく無駄にしない、その素材のもつ生命を最大限有効に生かし切る、またそれを残さず食する。無駄にしないということは、いうまでもなく自然が与えてくれる恩恵に対する謝意を示す。その為、僧侶は食べる前に“食事作法”があり、経や真言などを唱えてから食す。

                                「四威儀の心得」

「陶器」

器は料理の着物である

基本は中央を高く盛り付けるのが基本であり、なるべく器全体を使うのではなく、器の6割程度のくらいで盛り付けをするのが一番美しく見える。フランス料理などの器は白色が多いので、器の3割程度を使い料理を際立たせる。だから料理が直ぐに視覚に飛び込んでくるのである。それは白の器が光を反射し、料理をより一層大きく見させるのであろう。

日本料理はそうではなく、器も料理の季節を感じさせるものの1つの要素である。だから食べる前に器を見ると、より味を濃厚にさせ涼しさを感じさせてくれる。それは日本料理の視覚で味わう、そして日本特有の四季を表現できる料理文化であろう。

「陶器」

器は料理の着物である

基本は中央を高く盛り付けるのが基本であり、なるべく器全体を使うのではなく、器の6割程度のくらいで盛り付けをするのが一番美しく見える。フランス料理などの器は白色が多いので、器の3割程度を使い料理を際立たせる。だから料理が直ぐに視覚に飛び込んでくるのである。それは白の器が光を反射し、料理をより一層大きく見させるのであろう。

日本料理はそうではなく、器も料理の季節を感じさせるものの1つの要素である。だから食べる前に器を見ると、より味を濃厚にさせ涼しさを感じさせてくれる。それは日本料理の視覚で味わう、そして日本特有の四季を表現できる料理文化であろう。

「陶器」

器は料理の着物である

基本は中央を高く盛り付けるのが基本であり、なるべく器全体を使うのではなく、器の6割程度のくらいで盛り付けをするのが一番美しく見える。フランス料理などの器は白色が多いので、器の3割程度を使い料理を際立たせる。だから料理が直ぐに視覚に飛び込んでくるのである。それは白の器が光を反射し、料理をより一層大きく見させるのであろう。

日本料理はそうではなく、器も料理の季節を感じさせるものの1つの要素である。だから食べる前に器を見ると、より味を濃厚にさせ涼しさを感じさせてくれる。それは日本料理の視覚で味わう、そして日本特有の四季を表現できる料理文化であろう。

「味・香・色」

眼で味わい、臭いで味わい、舌で味わう。

精進料理は、その時季に潤沢に出回る旬の物を大切にし、五味・五法・五色の組み合わせによって味付けをする。
五味とは、『辛、酸、甘、苦、鹹』の調味料
五法とは、『生ま、煮る、焼く、揚げる、蒸す』の調理法
五色とは、『赤、青、黄色、黒、白』の色彩

これこそ日本人が継承する『食文化』である。

「味・香・色」

眼で味わい、臭いで味わい、舌で味わう。

精進料理は、その時季に潤沢に出回る旬の物を大切にし、五味・五法・五色の組み合わせによって味付けをする。
五味とは、『辛、酸、甘、苦、鹹』の調味料
五法とは、『生ま、煮る、焼く、揚げる、蒸す』の調理法
五色とは、『赤、青、黄色、黒、白』の色彩

これこそ日本人が継承する『食文化』である。

「味・香・色」

眼で味わい、臭いで味わい、舌で味わう。

精進料理は、その時季に潤沢に出回る旬の物を大切にし、五味・五法・五色の組み合わせによって味付けをする。
五味とは、『辛、酸、甘、苦、鹹』の調味料
五法とは、『生ま、煮る、焼く、揚げる、蒸す』の調理法
五色とは、『赤、青、黄色、黒、白』の色彩

これこそ日本人が継承する『食文化』である。

「審美眼」

味覚のみで語られていた食を、視覚などもあわせて味わういわば総合芸術の領域にまで引き上げた           北大路魯山人(1883-1959)

良い料理には盛り方の美しさ、色彩の清鮮、包丁の冴え、すぐれた容器との調和、それらに対する審美眼がなくてはならない。また、佳味を賞している席、即ち建築物に就いての審美眼がなくてはならない。さらに林泉(庭園)の幽趣、あるいはその境の山水に対する審美眼もなくてはならない。【北大路魯山人】

「審美眼」

味覚のみで語られていた食を、視覚などもあわせて味わういわば総合芸術の領域にまで引き上げた           北大路魯山人(1883-1959)

良い料理には盛り方の美しさ、色彩の清鮮、包丁の冴え、すぐれた容器との調和、それらに対する審美眼がなくてはならない。また、佳味を賞している席、即ち建築物に就いての審美眼がなくてはならない。さらに林泉(庭園)の幽趣、あるいはその境の山水に対する審美眼もなくてはならない。【北大路魯山人】

「審美眼」

味覚のみで語られていた食を、視覚などもあわせて味わういわば総合芸術の領域にまで引き上げた           北大路魯山人(1883-1959)

良い料理には盛り方の美しさ、色彩の清鮮、包丁の冴え、すぐれた容器との調和、それらに対する審美眼がなくてはならない。また、佳味を賞している席、即ち建築物に就いての審美眼がなくてはならない。さらに林泉(庭園)の幽趣、あるいはその境の山水に対する審美眼もなくてはならない。【北大路魯山人】

味覚

 

気候や体調によって変わる

料理の味の世界は複雑微妙な種々の要素が絡み合い、しかも材料の1つ1つに異なった味を持っており、味わう人においても地方的に、個人的に好みが違う。また世界の国々によっても違ってくる。それぞれ好きな味は違っているもので老人向き、青少年向き、茶人向き、男・女向き、田舎向き、都会向き、病人向きと様々な味がある。また1年のうちでも春夏秋冬その時々の気分と健康の状態とで、我々の味覚も左右される。そうしたいわば気儘な味の世界であるといえよう。万人に好かれるような料理を作る事は容易ならぬことである。

味覚

 

気候や体調によって変わる

料理の味の世界は複雑微妙な種々の要素が絡み合い、しかも材料の1つ1つに異なった味を持っており、味わう人においても地方的に、個人的に好みが違う。また世界の国々によっても違ってくる。それぞれ好きな味は違っているもので老人向き、青少年向き、茶人向き、男・女向き、田舎向き、都会向き、病人向きと様々な味がある。また1年のうちでも春夏秋冬その時々の気分と健康の状態とで、我々の味覚も左右される。そうしたいわば気儘な味の世界であるといえよう。万人に好かれるような料理を作る事は容易ならぬことである。

味覚

 

気候や体調によって変わる

料理の味の世界は複雑微妙な種々の要素が絡み合い、しかも材料の1つ1つに異なった味を持っており、味わう人においても地方的に、個人的に好みが違う。また世界の国々によっても違ってくる。それぞれ好きな味は違っているもので老人向き、青少年向き、茶人向き、男・女向き、田舎向き、都会向き、病人向きと様々な味がある。また1年のうちでも春夏秋冬その時々の気分と健康の状態とで、我々の味覚も左右される。そうしたいわば気儘な味の世界であるといえよう。万人に好かれるような料理を作る事は容易ならぬことである。

後片付け

道具を見ただけその大工の器量がわかる  宮大工 西岡常市

料理で一番大切なのは後始末である。道具の使った後の手入れがどんなに大切なことであるかは想像できると思う。料理に取りかかってから慌てて、鍋や、金網、茶碗、皿などを洗うような心掛けでは本当の料理は出来ない。道具を使ったあとの手入れ次第で味が左右される。鍋や包丁の洗い方一つで料理の味に影響するものだ

後片付け

道具を見ただけその大工の器量がわかる  宮大工 西岡常市

料理で一番大切なのは後始末である。道具の使った後の手入れがどんなに大切なことであるかは想像できると思う。料理に取りかかってから慌てて、鍋や、金網、茶碗、皿などを洗うような心掛けでは本当の料理は出来ない。道具を使ったあとの手入れ次第で味が左右される。鍋や包丁の洗い方一つで料理の味に影響するものだ

後片付け

道具を見ただけその大工の器量がわかる  宮大工 西岡常市

料理で一番大切なのは後始末である。道具の使った後の手入れがどんなに大切なことであるかは想像できると思う。料理に取りかかってから慌てて、鍋や、金網、茶碗、皿などを洗うような心掛けでは本当の料理は出来ない。道具を使ったあとの手入れ次第で味が左右される。鍋や包丁の洗い方一つで料理の味に影響するものだ